いつかきっと
お久しぶりです。もりよしです。
今日書く内容は、比較的暗い話になるかもしれません。先に報告させていただきます。
自分は今、大学四年生で就活と同時に研究や講義を受けて、単位を取得し、卒業と就職を目指して日々過ごしています。
就活といいますか、僕の場合は公務員志望だったので、公務員試験のために今年の年明けから本格的に勉強に勤しみました。
はじめの方は、知識が皆無の状態だったので、新しい知識がどんどんインプットされ楽しみすら感じていました。
第1志望は地元の県庁。年明けの僕は、地元志向がこの上ないくらい強く、「絶対にここに受かってやるんだ」と意気込み、地元に貢献することに自分の一生をかけるとも感じてました。
意気込んで、アパートの窓に「○○県庁の職員になる!」と書いた紙をのりではっつけて、公務員志望の仲間に支えられながらそれなりに勉強をこなし、知識も増え、点数も上がり始めた時でした。
時は、地元県庁の試験の1週間前。
ある日の大学の講義中に、心臓が急にバクバクし、吐き気を催し、ネガティブな感情に苛まれ、もうパニック寸前の状態にまで追い込まれ、僕は講義を抜け出し、すぐさま近くの病院に駆けつけました。
病院で、不安なことや吐き気がある時に飲む薬を頂き、その薬を飲んで、残った講義に向かったのですが、その講義でも吐き気や動悸が再発し、苦し紛れに講義を受けました。
それからというもの講義に出ること自体が怖くなり、2日ほどは講義に出ることが出来ず、頑張って講義に出たものの5分ほどで耐えきれず、帰ってしまうなんてこともありました。
僕自身、緊張しいなところが昔からあったのですが、明らかに今までの感覚とは違った感覚がするのです。
緊張感とは異なる感情。
もともと具体的に言えば、小学校中学校の時は、僕は人の気持ちをあまり考えず、思ったことを言ったり、場違いなことをしてしまったりと緊張とは無縁な存在だったと解釈しています。
高校に入り、絶対数として多くの人とコミュニケーションをとる機会が増えたことや、様々な経験を通して社会というものについて少しずつ知識が増えたことなどが相まって徐々に緊張感を感じるようになりました。
大学に入ると、小学校中学校の時とは全く対照的に、周りを気にしすぎる人間になり、緊張感を持ちすぎるようになりました。
話は少しそれましたが、今まで感じてきた緊張感とは異なる感覚に襲われるようになりました。
それからというもの、寝ることが困難になったり、情緒が不安定になったり、食欲が減退したりととにかく悪循環に陥ってしまったのです。
今でこそ、しっかり寝ることはできているのですが、気分が落ち込み、閉塞感を感じることもありますし、食欲はあまり湧かず、特に最近ネックなのは、外食が苦手になったことも非常にショックです。
一時期においては、電車も怖くて乗れないなんてこともありました。
まさか自分がこうなるとは、と何度も思いましたし、今でもそう思っています。
自身がこのようになったのは、おそらく将来のことを考えすぎて、プレッシャーを勝手に自分で作り出し、そのプレッシャーに押し潰されたからでしょう。
良く言えば、そこまで将来の自分について熱心に考えることができたとも取れます。
ただし、考えすぎることは絶対に良くないです。特に、将来のことについては。
なぜなら、将来のことなんてどうなるか分からないからです。
でも、考えるなと思えば思うほど考えてしまうのが人間です。
自分が今やるべきことは、ズバリ周りを頼り、無理をせず、静かな生活を送ることでしょう。
簡単にこの状況が改善されるなんて思ってもないけど、早く治したいという気持ちもあります。
でも、今はただ待つことが天命でしょう。
ここまで頑張れたという自信とこれを乗り越えれば、より強い自分になり、乗り越えた分楽しい未来が待っていると信じ、目の前のことを1つずつこなしていこうと思います。
今まで支援してくれた沢山の人にいつか恩を返すことがこれからの希望です。
どうか、皆さんも無理をしすぎないで。
ありがとうございました。
傲慢人間もりよし
もりよしは今猛烈に悩んでいる。
それは、将来のことについてである。
もりよしの中での今現在の将来の方向性は主に3つに分けられる。
1つは、大学院に進学することである。
2つ目は、公務員になることである。
そして、3つ目は、どこかの民間企業に就職することである。
自分は今年で大学三回生になり、そろそろこの3つの選択肢のうちから1つを選ぶ時期に差し当たっているのだが、まったくもってこのうちから1つを選ぶことができないのである。
自分はなんて傲慢な人間なのだろうか。
よく自分は、生きる上で「何かを得るより、何かを捨てる方がやるべきことが明確になる」という持論をポケットに忍ばせながら、生活を送っているのだが、この3つの選択肢を捨てる勇気を自分自身は持ち合わせていないのである。
なんて滑稽なことであろうか。
でも、夢を捨てたく無いのは誰だってそうなのでは無いだろうか?
(いや、僕が子供っぽくて傲慢すぎるのか?)
少し話はそれるが、なぜ1つに選ばなければならない状況が出てくるのだろうか。
例えば、選挙。
候補者の中から、自分の政治観に一番似ている候補者を選び、その人に投票する。
何でなのだろうか。
いや、もちろん人間はいつも無限の選択肢の中から、とある1つの行動をとりながら生活を送る。
それは、僕にだってわかるし、僕自身もそうである。
でも、選挙の中で自分の政治観とはまったく異なっている候補者しかいない場合においても投票をしなければいけないのだろうか。
候補者のマニフェストを冷静に捉えた上で、自分の政治観と整合性がつかなかったから、投票をしないという選択肢もありなのではないのだろうか。
いや僕は、なにも投票に行くなということを推進しているわけではない。
でも、自分とは全く異なった候補者誰かに投票するくらいなら、しない方がマシということもあるのではないだろうか。
もちろん選挙は行くべきであるし、私たち国民一人ひとりがまじめに考えた上で、投票を行うことが理想である。
最近東京都知事選があった。
私はおこがましい話東京都民ではないにもかかわらず、自分なら誰に投票するかといういわば選挙ごっこを一人でやっていた。
ネットやテレビで候補者全員のマニフェストを確認し、政見放送を視聴した上で、自分なりに考えて一人に絞った。
しかし、このとき思ったのである。
たしかに一人を選んだが、自信満々に胸を張って投票に望めるかと言われればそうではないということである。
むしろ、モヤモヤしながら投票する自分の姿が浮かんだのである。
つまり、なにが言いたいのかというとこの上なく妥協した上で強いていうならばこの人かなと選んだのである。
改めていうが、自分はとてつもなく傲慢である。
そう考えると、選挙も将来設計も同じようなことである。
つまり、上の3つのうちから選ぶ行為そのものは妥協の選択なのである。
「そんなこというなら、起業でもすれば?」という方もいるかもしれないが、それはそれで自分にとっては無理なことである。
自身の優柔不断さ、行き過ぎた理想主義思想には毎度毎度困らされる。
でも、できることなら自分に向いていてなおかつやりがいを感じられる仕事に就きたいという希望は誰しもが持つ野望ではないのだろうか。
逆にブログを読んでくれている方々はどのように将来設計を行っているのだろうか。そして、どのように選択肢を絞っていくのだろうか。
それが最近の疑問である。
もし、何か意見や感想があり、僕自身に言ってもいいよという人がいれば、ぜひお願いしたい。
とにかく迷っており、焦っている。
色んな意見を参考にした上で、「やっぱこれだねーロッテのトッポ」となることが一番の救いである。
話が急展開だがここで、上に挙げてある3つの選択肢を定めた理由を語っていく。
まず1つ目、大学院に進学。
この選択肢が挙がった理由、それは極論を言えば猶予期間が欲しいからいわばモラトリアムである。
ここで二年間研究をしながら、将来を考えるための延長期間として活用したいのである。
(こんな世の中舐め腐った人間で申し訳ございません。)
もちろん、院で研究したいことや勉強したいことはある。
僕自身、以前のブログでも書かせていただいた通り、日本史に興味がありとくに近世史(江戸時代)が好きなので、この辺りの時代の文化史や民衆史、思想史などについて学んでいきたい。
そして、最近になって興味を持ち出してきたのが、演劇・演芸である。
まぁ、簡単に言えば落語や漫才、ミュージカル、歌舞伎、能、講談、狂言などの伝統芸能のことである。
この辺りの芸能史にも興味があり、院でこの辺りの研究をすることも非常に楽しそうである。
こういった興味や猶予期間が欲しいという舐め腐った根性から僕は大学院という選択肢を定めた。
(まあ、僕の能力で大学院に受かる可能性は宝くじを買うようなものなのですが。)
そして、2つ目が公務員である。
理由は、地元である三重県のために働ける人間になりたいという意志からである。
僕は今山梨で大学生活を送っているが、山梨で暮らしているからこそ、三重県の良さについて実感することができた。
なんというか三重県は暖かく、ノスタルジーを感じ、当たり前のことなのだが、アットホームな感じで迎えられるような感覚を覚えるのである。
三重県で公務員になりたいという理由は、20年近くお世話になった三重県という環境に恩返しをしたいという意思が芽生えたからなのかもしれない。
あと、今現在の三重県知事が非常に好きだからという理由もある。しっかりと責任感を持って、三重のために働いている姿はふつうにかっこいいし、僕にとって憧れの的である。
こういった理由から、僕は三重県庁で働きたいとも思うのである。
そして、最後が民間企業に就職することである。
僕自身、友達のすすめでインターンシップに申し込むことが増え、その中でとある大手企業の一次選考に受かったことが非常に嬉しく、なおかつその企業が僕の興味アンテナに沢山の刺激を与えてくれたこともあり、この企業は相性が良いのかもしれないという思いから、この企業にアタックするのもありかもしれないとも思い始めているのである。
これらが今現在の僕自身の選択肢である。
「まぁ、これら全てについて一生懸命やっていれば自然と未来が定まるでしょ」というメイプルシロップほど甘い考えを持った本当に世の中を斜に構えている自分もいれば、このままじゃ明らかにダメだと思う自分が葛藤しているのが僕自身の今現在の心情ということなのだろう。
この後もとにかく悩んで悩み潰れてを繰り返すだろうが、なるべく妥協しないような進路を確立していきたいと考えている。
こんな世の中を舐めまくっている僕の独り言を面白いと思って、このブログを最後まで読んでくれる方がいるのであれば、そんな幸せなことはない。
では、またいつか。
ありがとうございました。
失敗と成功
話が上手い人が羨ましくて堪らない今日この頃、どうも、もりよしです。略して、どうもり。更に略して、どり。更に略して、ど。更に略して...っっっっってもう略せられやんがな!!
(これが俗に言う関西風ノリツッコミというやつである。)
話が上手くなりたい。
最近はただその一心である。
自分がこの感情を抱いたきっかけについては、今月の初めあたりにまで遡る必要がある。
「えっ?遡るのかよっ!」なんて言わないで、静かに話を聞いて頂けたら、幸いである。
五月に入ってすぐのとある日、僕はパワーポイントを開いて授業の資料を作成していた。
翌日のzoom授業の準備の為にだ。
ここで、ブログを読んで頂いている方々の頭には、はてなマークが浮かぶことが容易に想像できるので、補足を入れておこう。
このままだと「なんで大学生のお前が授業の準備をやっているんだ。」ということになりかねない。
僕は高校時代、私営の塾に通っていたのだが、ありがたいことに大学三回生になった今もなお交流を持たして頂いている。
その塾では、毎月、先生が塾の中でのニュースを取り上げ、それを文字に起こしたり、そのニュースに関わる写真をのっけたりした新聞のようなものを発行するのだが、その新聞のワンコーナーとして僕がコラムを執筆させて頂いていたのだ。
コラムの内容は、日本の歴史に関してのことだった。
先生の方からは何を書いてもいいとのことだったので、僕は自分が大好きな、というか僕が歴史を好きになるきっかけとなった歴史人物である足利義政についてのコラムを書かせて頂いた。
そして、コラムの文を先生に送ってから一ヶ月ほどの時間が過ぎた頃、たまたま先生とライン通話で話をする機会があったので、僕はコラムの評判ついてまるで某企業が販売している梅酒のようにさらりと聞いてみた。
聞くところによると、「足利義政についての見方が変わった」とか「こういう歴史の解釈もあるのか」と現在の塾の生徒から言って頂いたらしく(お世辞でも嬉しい)思いの外、コラムの評判が良かったらしい。(ということにしておこう。)
そこから、先生と話が弾み、事の成り行きとして、「今度はコラムではなく、授業をしてほしい。」ということになったのである。
コラムなら、今回のようにブログ感覚で書けるし何の不都合もなかったのだが、授業はあまりしたことがなく、経験も全く乏しいこともあり、その話を頂いた時の僕の心には少し不安要素が付きまとった。
授業はしたことがないわけではない。
高校時代、野球部全員の前で先生志望の生徒がおのおの興味のある科目の授業を作り、一番良いとされる授業を先生志望ではない生徒に投票で決めてもらうというイベントがあり、僕はその際に世界史の授業を皆んなの前でやった。
あまり、覚えてないが「世界史はRPGだ。どこどこの国の王様が誰々に助けを求めて、隣国の王様を倒し経験値を得るストーリーが世界史なのだ」とか「第一次世界大戦をAKBのファンとももクロのファン同士の喧嘩に置き換えて考えてみよう」という今考えるとなかなか訳の分からない授業をやった。
「なんだそのヘンテコな授業は?これのどこが良い授業なんだ?」とお思いになったことでしょう。
しかし、そんな皆さんの思いとは裏腹に僕はこの授業で優勝をかっさらう。
少々自慢くさい言い方に聞こえるかもしれないが、僕は自慢をしたいわけではない。
優勝できたのはたまたまのことである。
この授業は、野球部内で行なったものであり、もちろんのこと授業を受ける側は顔見知りであるので、完全にホームなのである。(野球だけに。だれか座布団頂戴)
僕が優勝出来た所以があるとするならば、ただ一つであろう。
良くも悪くも発想が奇抜だったから。
ただそれだけであろう。
他の皆んなが真面目な授業をしている流れに抗って、変な授業を行うやつがいれば目立つのは当たり前。
ただ、目立ったというだけのことである。
そりゃ目立つわいな。
英語の構文についての授業の後に、世界史はRPGだとかヘンテコな論を提唱し始めるのだから。
この授業について、今冷静に考えると、授業の内容は良くないけど、パフォーマンスとしては悪くなかったと思う。
「世界史はRPGだ」という掴みはバッチリ決まっていた。
皆んなが抱く世界史についてのイメージは、暗記で面白くないとかカタカナが多くて覚えにくいと言ったものであろうという憶測の上で、観客に世界史のイメージについて語ってもらったのだが、それが予想通り、暗記だから嫌だというものであった。
この世界史に対する負のイメージがフリとなり「世界史はRPGだ」という掴みが成功し、ウケを取ることができた。
(当時の僕は、緻密に、ここでフッといて落とそうなんていうお笑いの知識がなかったので無意識にやっていた。)
この経験から得たものは、知識があるから面白い授業が作れるわけではないということ、かといって知識がなければ授業として成立しないということである。
ここでいう僕の授業は明らかに後者である。たしかに優勝はしたが、これは授業ではない。言うなれば、コントだ。
そう考えると、改めて先生は凄いという答えに行き着く。
なぜなら、先生は莫大の知識を蓄えた上で、パフォーマンスとして面白い授業を行わなければいけないからだ。
パフォーマンスとは要するに話し方とか授業の組み立て方といった教育方法論的なことである。
パフォーマンスの面は悪くはなかったのかもしれない。
今考えると掴みの前にたっぷり間を取れていた。
無意識のうちに。
僕はごくごくごくごくごくごくまれにパフォーマンスが群を抜くことがある。(決して喉が渇いているわけではない)
大学のサークルの新歓で、当時一目惚れした異性とのデートプランを考えるというアイスブレイクを行なった際もパフォーマンスは上々で、僕自身得体も知れぬ集中状態、カッコつけていうならばゾーンに入っていた。
(もし、当時一目惚れした異性がこのブログを読んでいるとしたら、もう時効なので許してください。)
教育方法論の知識もゼロでポテンシャルだけで挑んだワークショップだった。
この時の僕が人生で一番上手な話が出来たのではないのだろうかというくらい良かった。
この時の僕は熱かった。恋に燃えていた。
(異性よ、時効なんで許して)
その熱さがきっとユーモアさに直結したのだろう。
僕は「一泊2日鎌倉旅行って良くない?まず電車で横浜までいって、山下公園めぐりーの、中華街いきーの、そして、小田原で小田原城いきーの鎌倉いきーの、だいぶつみーので泊まりーの。...割愛 このプランどうっすか?!」と聞いている側に問いかけた。
(後に、講義で習うのだが、この手法は「発問」という授業にはなくてはならない大切なものらしい。これを無意識に僕は行なっていた)
そしたら、ある子が「東京の方がいいんじゃないですか?」と意見をくれた。
それに対して僕は、「なるほど。東京ね!そうだ!その子(一目惚れした異性)はお笑いが好きだから、新宿のルミネ巡りとかもいいかもな?これについてどう思う?!(時効なので許してちょんまげ)」と答えた。
(彼はポテンシャルで「同意」して、またしてもポテンシャルで「発問」を行う)
こういったことを繰り返し、ワークショップは終了した。
これは今振り返っても、もりよしの人生史上最高のプレゼンだった。
少し話が逸れました。
時を戻そう。
塾の先生からzoomで授業をやってくれと頼まれた僕は、自分で色々悩みながらパワポを作り、友達に見てもらった。
友達に見せたものはまたしても授業ではなかった。
その上、パフォーマンスの面ももうまくいかなかった。
授業を終えた後、友達から沢山のご指摘を頂き、色々と改良を加えてから、もう一度授業を行なった。
2回目の授業は1回目よりもはるかに良かったし、これなら授業として成立するのではないかという実感もあった。(いや、間違いなく授業として
成立してた。)
そして、迎えた当日。
考えに考え抜いた授業内容に、複数人の友達の指摘を踏まえた授業であるにも関わらず、パフォーマンスが疎かであったが故に、手応えのある授業はできなかったのである。
ここでもりよしは喋りが上手くなりたいと改めて思ったのである。
そこで、反省としてこの授業(授業として成立しているがパフォーマンスが良くなかったもの)ともりよしの史上最高のプレゼン(授業ではないがパフォーマンスがえげつなく良かったもの)を比較させて考えてみた。
何が違ったのか。
明らかに「熱さ」であった。
プレゼンの際は、「俺は一目惚れした子とデートにいきたいんだぁ!!」という気持ちが心の底から込み上がっていた。
だからこそ、面白いものに仕上がったのだと思う。
しかし、今回の授業では、その「熱さ」が足らなかった。
「俺はどうしても君たちに歴史の面白さを伝えたいんダァァ!!」ぐらいの気持ちでいけば、もっと面白い授業になったのであろう。
「熱さ」というのは授業にとどまらず、物凄く大事なものであるということが今になってよくわかった。
少し話は逸れますが、芸人の中川家の剛さんがM-1グランプリについてこんなことを言っていた。
「漫才の中でこの一言を言いたい!!っていう気持ちが強い人が優勝するような気がする」と。
授業においても、全く同じだろう。
何が何でもこれだけに生徒たちに伝えたいという思いが強ければ強いほど面白い授業になりうるのだろう。
僕は今のところ先生になろうとは思ってないですが、教育実習は行うつもりなので、その際には、熱さを内に秘めて頑張ろうと思います。
僕にしてはなかなか筆が進みました。
長い乱文ですみません。
ありがとうございました。
しょうもないこと思いついた
どうも、もりよしです。
しょうもないこと思いつきました。(唐突)
「いつもじゃねえか(笑)」って声があちこちから聞こえたけどスルーします。
時を戻そう。
僕はとてつもなくしょうもないことを思いつきました。
それは何か。(英訳するとwhat's it?)
(フランス語訳するとC'est quoi?)
(ルクセンブルク語訳するとWat ass et?)
(いい加減やめときますね。)
それは「新相対主義」です。
「シンソータイシュギ?ナンダソレ?」ってどこかの宇宙人から👽テレパシーが届いたので、説明していきます。
新相対主義とは、プロタゴラスの相対主義をリニューアルさせたものです。
「プロタゴラスノソータイシュギヲリニューアルサセタモノッテナンダ?」って火星の方から声がしたので一個ずつ丁寧に説明していきます。
プロタゴラスノソウタイシュギトイウモノハデスネ...
「いや、お前も異星人やったんかい!」
「はは、なんてね。笑」
クオリティの低いスペースジョークは置いといて、説明していきます。
プロタゴラスの相対主義とは、簡単に言えば、「世の中に答えなんてあるわけが無い、答えなんて人それぞれさ!」っていう身もふたもない考えのことです。
この考えが広まったのが、紀元前のギリシャのことです。
僕自身このプロタゴラスの考えが割と好きで、人生の答えは人それぞれだという僕にしては硬い意見を持っていたのです。
でもある日、このプロタゴラスの考えにとある大きな欠点があることに気づいたのです。
それは、「答えなんて無いということ」を前提に話を進めているということです。
答えなんて無いなんて言われれば、「じゃあ好き勝手なことをしたって問題無いんだね!」となってしまう訳です。
実際のところ、当時のギリシャでこの考えが広まったのちに、衆愚政治という今現在の日本のような状態を作り上げてしまったのです。
これでは元も子もないということにようやく気付いた僕は、「人それぞれによって、国それぞれによって、答えは違うということを明確にし、それぞれの価値観を尊重するということ」を前提にした上で、新たな主義を作るべきだと考えた訳です。(こんなこと考えるよりもっと他にするべきことがあるんですけどね...)
それこそが「新相対主義」です。
つまり、真理は必ずある。でも、その真理というものは、人それぞれであり、国それぞれである。だから、個人個人が正解について考えを巡らせ、国々が正解について考えを巡らせていこうというものです。
何事も人に任せたり、人の言うことを鵜呑みにするのではなく、まず自分で考えてみようというのが僕の意見です。
自分で考えた意見に自信がなくてもそれでいいと僕は思います。
ここで問題なのは、「自分で」考えるということです。だって、新相対主義は人それぞれによって答えは違うのだから。
この辺りで勘のいい人は、「答えが人それぞれなら結局相対主義と一緒じゃん。また自分勝手なことする奴が出てくるじゃないか」とおっしゃることでしょう。
そう言われてしまうと僕の弁論術では太刀打ちできないので、新相対主義にある条件を一つ付け加えることにします。
「新相対主義」は相手すなわち、他人、他国家の価値観を尊重します。
だって、価値観も人生の答えも個人個人によってちがうんだもの。
だから、日常生活で自称新相対主義者が、「お前の価値観はおかしい!」と誰かに罵倒している場面を見かけたとしたら僕は心の中でこう思います。
「あなたは新相対主義者ではない」と。
そもそもこの場合罵倒している側は、ただ自分の価値観を押し付けているだけなんです。自分の価値観(人生の答え)と相手の価値観(人生の答え)なんて一致するわけがないというのに。
真の新相対主義者は他人に対して、罵倒なんてしません。「世の中には多様な価値観を持った人がいて、それぞれが多様な生き方をし、それぞれか人生の答えを求めて頑張っているのだ。だから、僕自身も自分らしく生きることができるように頑張ろう。」という精神で生活を送ります。
こんなスタンスで「希望の轍(サザンオールスターズの名曲)」を一歩ずつ着実に進む人生を僕自身は目指しています。(騙されたと思って一回聞いてみて!)
自分自身のオリジナリティ溢れた独創的な世界を尊重し、かつ他人の世界も尊重するというブラックホールぐらい大きな理想。
この僕の理想は現実になるのだろうか。
それは分かりません。
でも、こんな僕のしょうもない世界も尊重してください。
もしあなたが、新相対主義者であるのなら。
(相変わらず最初から最後までしょーもなっっ!って思った人いますか?
僕もです。)
世紀の一戦 人間vsコロナ
何が起こっても~♪変じゃない~♫そんな時代さ~🎶覚悟はできてる♬
(Mr.childrenさんの「[es]~theme of es」より引用)
どうも、コロナウイルスが世界中に蔓延してるのにもかかわらず、相も変わらず能天気なもりよしです。
テレビをつければどのチャンネルでも「コロナ、コロナ、コロナ」ですね。
日本でも先日緊急事態宣言が発令されました。
ここまで人間に脅威を及ぼすウイルスは本当に恐ろしいです。
一体日本は、いや世界はどうなってしまうのでしょうか。
僕自身この一連の流れを俯瞰で聞いてて、(いや、主観で考えろよ)政府は何をするのが正解で、自分自身は何をするのが正解なのかが全く分からなくなってしまいました。
こんなことを言ってしまえば、あれなのかもしれませんが、もはやコロナウイルスにかかるか、発症するかどうかは「運」なような気がします。かかる人はかかるし、かからない人はかからない。
「そんなこと言ってちゃ、日本の状況はもっとひどくなる」と言われるかもしれませんが、もう「運」にすがるしかないような状況が続いているのも事実ではないでしょうか。
僕は今、「人間は試されている」のだと思います。
かといって、お前はなんか実行しているのかと言われれば、何もしてないので偉そうなことは言えないのですが。
明らかに人間は新しい何かを求めており、私たち一人ひとりが何かを創造しなければ、もっと恐ろしい事態が起こりうるのではないのだろうかということを危惧している今日この頃の僕です。
そんな激動の時代を生きていることは、非常にワクワクすることでもあり、恐れ多いことでもあります。
「三密」を避けなさいと政府からの指令が出されてからも、移動を繰り返してしまう人間。
やめなさいと言われたことに対して、やりたくなってしまう。
これが人間の本能なのでしょうか。
でも、本能だからという理由でむやみに外出してはいけないというジレンマが襲い掛かってくる。
人間はエゴと理性のせめぎあいの中で生きているといっても過言ではないのでしょう。
エゴが勝ってしまった人は外出し、理性が勝った人は家で生活をする。
そう考えると、なんだか人間はコロナウイルスに翻弄されているように思えるんですよね。
まあ、これはしょうがないことなんですが。
世紀の大決戦 人間vsコロナウイルス
今のところコロナウイルスのストレートが決まり、コロナ優勢になっている。
人間は後手後手に回ってしまっている。
でも、これはしょうがない。だって、初めてのことなのだから。
こういった初めて人間が脅威にさらされるようになった時に、わらにもすがる思いで人間が捕まえるのは、過去の人間の功績、失敗が凝縮されている「歴史」なのだろう。
恥ずかしいことに、大学で地域史を志している僕は、コロナをきっかけにしてようやくこのことに気付きました。
以前にもブログに書いたかもしれませんが、「創造には伝統が不可欠」だと思います。
ここでいう創造とは、コロナウイルス用のワクチン、特効薬を作ること。
伝統とは過去のウイルスの情報のこと。
つまり僕がなにを言いたいのかというと今こそ、「歴史」が必要だということです。
ユウチューブでニューヨーク在住の日本人がアメリカのコロナウイルスによる惨状を説明する動画が注目されていますが、ここでいう動画も「歴史」と言えるのでしょう。
SNSが主流になった今現在私たちは日々様々なことを発信します。
ここで発信されてることも「歴史」でしょう。
すなわち「歴史」=「発信」とも言えるのかもしれません。
僕のブログも「歴史」、日記も「歴史」、メモも「歴史」、冷蔵庫に冷やしている日本酒も「歴史?」
まあ、本質から少しそれてしまいましたが、これからも末永く元気で入れるように頑張っていきましょう。
ありがとうございました。
もうヤクなんてしない
どんなときも、僕が僕らしくあるために頑張ります。
てな訳で、どうも、もりよしです。
いや〜、ビックリしましたね。
先日、槇原敬之さんが覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕されました。
正直、非常にショックです。
僕自身槇原敬之さんの歌は子供の頃から母親の影響で車とかでもよく聞いてましたし、今でもよく聞きます。
覚醒剤って本当に怖いですね。
一回やってしまったがもう最後なんだなと実感しました。
余談ですけど、槇原敬之さんの音楽センスは凄まじいです。
「お前が槇原敬之のなにを知ってんだ」って話ですよね。
僕が読み手だったらそう思うかも。
ちなみに槇原敬之さんの歌の中で、僕が好きなのは、「SPY」とか「No.1」、「hungry spider」「モンタージュ」とか、まあ有名どころで言えば、「もう恋なんてしない」とか好きですね。
一時期この歌をずっとリピートで聞いていたこともあります。
今思い返すと少しサイコだったと思います。
「どんなときも」とかもいいですよね。
一年ほど前に、自分に自信が全くもてなくて(まぁ、今もあまりないですが)ずっとネガティブな感情になっていた時に、この歌をずっと聞いて、自分に活力を与えるルーティンをしてから家を出るなんてこともしょっちゅうありました。
もうこんな過去の恥ずかしいことなんて、言わないよ絶対。
なんてったって歌詞がいい。
「好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい」
この当時の僕には、「誰になんと言われようが、自分はこれが好きなんだ!」というものがありませんでした。
いや、現実に言えば、あったのかもしれません。
でも、誰かから「よしき、それ実は好きじゃないよね?」と言われたら、「たしかにそうかも。」と思ってしまうのがこの当時のもりよしでした。
今となっては、恥ずかしい過去です。
他人になんて言われようが、僕はこれが好きだと自信を持って言えるものを作ろう!と意気込んで日々生活を送っていたそんな僕にとって、この歌詞は心にしみるなんてもんじゃない。
「迷い探し続ける日々が答えになること僕は知ってるから」
意気込んで自分が好きなものを見つけるために、色々と試行錯誤を繰り返していた自分でしたが、結果が伴わない。
どうしようかと焦る日々。
今思い返せば本当にバカでした。
自分が好きなものなんて、考えて見つかるものじゃない。
無意識のうちにやってることが、本当に自分が心の底からすきなことなんだということに今ようやく気づきました。
しかし、過去の自分はそんなことなど考えず、迷走を極めていました。
でも、過去のもりよしは諦めませんでした。
なぜなら、この歌詞のように迷走することが、答えにつながると心から信じていたからです。
槇原敬之さんは、この歌詞をどういう気持ちでかいたのでしょう?
僕の推測ですが、自分の好きなこと、少し大げさに言えばアイデンティティの1要素を誰かから与えてもらうんじゃなくて、自分から取りに行こうよっていうメッセージを伝えたかったのだと思います。
たしかに、自分は迷走を繰り返しました。
そして、自分が求めている答えはなかなか見つかりませんでした。
でも、それでいい。
答えが見つかる見つからないどうこうじゃなくて、自分から行動することの大切さをきっと槇原敬之さんは我々に問うたのでしょう。
そして、もっと言えば、迷走したからこそ、答えが見つかるということを伝えているのでしょう。
迷走しつつも、ふとした瞬間に
「俺なにやってんだ?」
と思わせるのがこの曲の裏テーマなんでしょう。
とにかく、僕はこの歌とともに、成長してきましたし、この歌のおかげで今の僕があるといっても過言ではないのです。
過去のエピソードはこの辺りにしておいて、本題に参りましょう。
槇原敬之さんが逮捕されてから、槇原敬之さんが出した作品等の販売が次々と停止されています。
少し遡れば、チャゲアスのアスカさんもそうでした。
そこで僕は思ったんです。
「本当に作品に罪はあるのか」と。
それに加えて、「販売を停止しているけどこれって誰の意志で?」という疑問です。
皆さんはどう思いますか。
僕の意見としては、
「作品に罪はない」と思います。
なぜなら、たとえ槇原敬之さんが覚醒剤をやっていた時にできた作品が出回っていた場合も、それを作品として一時的にでも捉えたのは作品を嗜む側だから。
なんで槇原敬之さんがここまで有名なのか。
それは当たり前のことで、槇原敬之さんの作品によって、心を打たれた人がたくさんいたから。
これは私たちが槇原敬之さんの作品を認めたといっていいでしょう。
もし本当に槇原敬之さんが覚醒剤を使用した上で、作った歌があって、それが出回っていたとしても、私たちは、そんなことなどつゆ知らず、その歌を聴いて、「槇原敬之は天才だ。流石だ。」と思うのであれば、それは罪のない作品だと言えるでしょう。
「それはお前が槇原敬之のことが好きだからいってるだけだろ」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
でも、僕はそんなこと関係なく「どんな作品においても、罪はない」と思います。
だって、今までの我々が罪があるかどうかわからない作品を作品として認めたのだから。
これが今の日本の世の中であり、民主国家なんです。
そして。もう一つ。
誰が販売停止を決めるのかということ。
これ覚醒剤以外でもそうですよね。
最近誰かと誰かが不倫した場合、当事者の作品とかCM、テレビ番組にも影響が出るパターン。
これってなんで影響がでるの?
たとえ不倫しようが覚醒剤をしてようが、イメージが絶対に悪くなるのかといえば、そうじゃないと思う。
こういう時こそ、民衆の意見を聞くべきではないかと。
民衆の過半数が、この人には、テレビに出て欲しくないといえば、その人は世間からのイメージが悪いと判断した場合において、CMとか作品に手を加えるならまだしも、なにも民意をとり入れず、覚醒剤やったからアウトとか決めるのは少し早とちり過ぎませんか。
一体誰が決めてるのですかね。
少しでもいいから民衆の意見を聞くべきでしょう。
不倫したからもうだめみたいな暗黙のマニュアルでもあるんですかね。
芸能界は怖い。
今回はなんか左向きの話になりましたが、ありがとうございました。
p.s.無意識のうちに、ツルブン色に染まってきました。