もりよしのあどばーたいずめんとだいありー

主に、本の感想や旅行に関することを投稿します。

自分を好きになる

どうも、もりよしです。


今回は、自分の悩みを打ち明けます。


今現在の自分の悩み、それは、自分のことが好きになれないことです。


もっと言えば、自分の容姿が好きになれないということです。


僕自身大学に入るまで、自分のことすなわち森田佳希という人間についての知識が全くなかったので、自分自身のことを好きとも嫌いとも思ってなかったのですが、大学に入って少し自分自身について知った上で、自分について考えてみると、どこか好めないところがあるのです。


皆さんは自分のことが好きですか?

自信満々に自分のことが大好きと言える人は、それはこの上なくしあわせなことだと思います。


僕の今現在の課題は、自分を好きになることです。大学2年生になってようやく自分は、自分の性格や価値観、思考が大好きになりました。誰になんと言われようと、自分の性格はこんな感じだから仕方ない、と言えるほどに自分は成長できたと思います。


自分はなぜ自分のことを好きになりたいのか?


おそらく、自信が欲しいのだと思います。自信は絶対に自分のことが好きじゃないと出てこないと思います。自信はある種オーラとなり、その人の体にまとわりつき、他者からみると、特別なものを想起させます。オーラには、正のオーラもあれば、負のオーラもあると思います。僕自身、オーラがある人を何回か見たことがあります。というか、僕はオーラを感じることが多々あります。まぁ、こんなのただの思い込みなんでしょうけどね。


正のオーラがある人について思い返してみると、やはり自信が半端ないイメージがあります。こういった正のオーラを持ってる人は「誰になんと言われようと、これが私だ!他人からつべこべ言われる筋合いはない!」って心の中で大声で叫んでるような気がします。(なんかオーラって何回も言ってると胡散臭いし、宗教臭いですね。もうこの話やめます。)


今思いつきましたが、「自信は余裕」と同義かもしれません。つまり、落ち着いていることが自信につながり、オーラにつながる。冷静沈着な行動、臨機応変な行動は余裕のある、すなわち自信が感じられる行為だと言えるでしょう。


じゃあ、自信をつけるには、どうすればいいのか。


これはもうとにかく色んなことを経験して、慣れることでしょうね。慣れるというか、成功体験を増やすことですかね。


結局、本当に賢い人や、面白い人、偉大な人は色んな失敗を経て、それについて自省して、大成功を果たしてきたのだと思います。


さて、もりよしの悩みに戻りましょう。


僕は僕自身の容姿が好きではないと言いました。ここでいう容姿とは、おおよそ顔から体つきから服装などまでのことです。


こんなことをいったら、「産んでくれた両親に失礼だ」という方もいらっしゃるでしょう。僕自身も少しそう思いますが、今から徐々に克服していこうと思います。


では、一体自分はなぜ容姿に自信を持てないのか?


僕の理論からすると、自分が他者から注目されるという経験、そして他者から評価されるという経験が乏しいから自信に繋がっていかないのだと思いますし、きっとこれが主な原因でしょう。


なんか自分のことを戒めるようなブログを書くときはほとんど「経験が乏しい」という答えにたどり着いてしまいます。


なるほどとにかく僕は色んな経験をして、失敗や成功を繰り返しながら成長していくべきなのか。


非常によくわかりました。


すみません。なんか今回は自分語りになってしまいました。


ありがとうございました。

勉強って何のためにするのだろう

どーもー。もりよしですー。

ね。あー、ありがとうございます!

今イヤホンの耳につけるゴムのスペアを頂きました!

こんなん、なんぼあってもいいですからね。

(何を隠そう。これはミルクボーイさんのパクリである。)


クオリティの低いパクリ芸は置いといて、本題に参りましょう。

今回は「なぜ勉強をするのか」という誰でも一回は考えたことのある問題について僕なりの意見を論じていきたいと思います。

今でこそ僕はこういった問題について考えることが好きで毎日こういったことを考えて生活しているのですが、中学生や高校生の時のもりよしはこんなことを真剣に考えたことなど皆無でした。

おそらく、勉強はなるべく偏差値の良い大学に入って、なるべく収入の高い就職先に勤めるためぐらいにしか考えていなかったと思います。

でも、今現在の僕は、以前ブログにも書いた通り、世の中には正解などなく、上で挙げたようないわゆるレールの敷かれた人生と言われる人生は誰かにとっての最適解かもしれないけど、自分にとっての最適解ではないかもしれないという考えを持っているので、上で挙げた勉強の意義は少し曖昧だと感じています。


あっ。何でぼくがいきなり勉強の意義について考えたのか説明してませんでした。

最近自分は哲学に関心があり、哲学の入門書みたいなものを読んでいたんですが、これを読んでふと考えたのがこの議題でした。

余談ですが、哲学を勉強すると、何か現実世界とは異なる別の世界に行ったような感覚を覚えてしまいますね。

僕にとって哲学を勉強することは、まるで大麻でも吸ってる感覚です。

もちろん大麻など吸ったことはありませんが。何か物事の真理を追求しているという過程が、全ての物事をについて網羅したかのような錯覚を引き起こすのでしょう。

これはある種面白いことであり、ある種怖いことです。

哲学はどこか脱法的です。

だから、皆さんも哲学を勉強するときには、これは脱法的であるという自覚を持った上で、勉強することをお勧めします。

僕自身、これ以上哲学の議題について踏み込んでしまったらいけないかもしれないというアブナイ匂いを少し嗅ぎ取ってしまいました。

ドツボにはまると哲学ワールドから抜け出せなくなるかもしれないという恐怖感をものすごく感じました。

もちろん哲学は面白いものなので、哲学を志すことはいいことだと思うのですが。

だから僕は、哲学ワールドには踏み込まないようにしようと心がけながら、本を読んでいました。

ちなみに僕が読んでる本はこれです。

f:id:moritayoshiki:20200201141736j:plain 

この本ものすごく面白いのでお勧めです!

でも、哲学は脱法的だ!っていっておいて、それを進めるのは、麻薬とか覚せい剤を勧めるのとなんら変わらない気がしてきました。

逮捕されちゃう。あぁ、怖い怖い。


話が逸れに逸れて、これ以上逸れることなどあるのか?というぐらい逸れてしまいました。いつもながら。


本題に参りましょう。

「なぜ勉強するのか。」

僕が思うに、新しいものを生み出すすなわち創造するために僕たちは勉強するのだと思います。

そこで勉強の対象となるのが、歴史になってくるのだと思います。

私たちは常に新しいものを欲しています。

これは、音楽界や芸能界に限らず全ての業界においてもそうでしょう。

諸行無常というかなんというか。

僕が大好きな椎名林檎さんも「歌舞伎町の女王」という歌の中で、「一度栄えしものでも必ずや衰えゆく♫」とか、「人生は夢だらけ」という歌では、「この世にあってほしいものを作るよ〜🎶」といっております。

古き良きモノがいつか崩れてしまう。

それは、私たちの心の拠り所でもあり頼りにしているものだ。

そんな心の拠り所が崩壊したとしても、自分たちがその後生きていくために、新しい心の拠り所を発見しておく必要がある。

僕はこれが勉強の意義だと思うのです。

これに加えて、だからこそ僕は既存の文化をいろんなアプローチで保存しておく必要があると思うんです。新しいものを人間が生み出すことができるように。

僕は将来学芸員になって、博物館に勤め、過去の史料を保存し、文化を発信していくという夢、または、県庁職員になって、その地域の文化を発信していく夢があります。 

とにかく、僕は日本の文化が大好きなので、日本の文化を発信する仕事に就きたいと考えています。

正直、学芸員になろうが、県庁職員になろうが、会社員になろうが、何になろうが、僕がしたいこと・野望はこれです。

これまでの僕自身の気持ちとしては、文化を発信することは大好きですが、この行動に意義はあるのかとずっと疑問でした。

でも、今回勉強の意義について思考をしたことで、少し自分の夢の役割を認識できた気がします。

人間は生き残るために、幸せになるために、生活を楽しむために、本能的に新しいものを欲している。

そして、新しいものを作るために、一体何が新しいものなのか定めようと、既存の文化を勉強する。

世界はこんな感じで循環してるのだと思います。


今回哲学を勉強して、人類は階段のように進化していくという説はあまり的を得てないのではないかと感じました。

人類はきっと螺旋状におんなじことを繰り返しているのです。

だから、古墳時代の人々と現代を生きる私たちは何も変わらない。

これは歴史を遡れば自明の理です。

私たちは昔から争いを続けています。

軍事手段は違えど。

もう一つ例としてはルネサンス運動が挙げられるでしょう。

私たちは同じことを繰り返す。

perfumeポリリズムのように。


そう考えると、歴史は暗記ではないということがよくわかりますよね。

大事なのは流れです。どう考えても。

「この後日本社会はどうなるのか」ということを知りたければ、過去の歴史を遡ればいい。

(偉そうにいってますが、僕自身将来の日本の状況について全然わかりません。これから歴史を学んで徐々に知識を養っていきます。)

過去に移民が入ってきて社会が混乱したドイツを勉強すれば、グローバル化の波に飲まれている日本において、何か突破口を見いだせるかもしれない。

(将来の日本について、何の最適解も見出せてないのにこんなことよく言えるよな自分。)


今回は話が僕にとって壮大すぎて、僕自身あまり言いたいことを整理できませんでした。

もっと知識つけます。

ありがとうございました。

最近よく考えることをもう少し掘り下げて考えてみた。

どうも、もりよしです。


今回は前回述べさせていただいた「人生において、何が正解なのか」という問題について、もっと深く考えていこうと思います。


なぜこの課題についてもっと深く考えていこうと僕が思ったのかというと、最近読んでいる「論語と算盤」という本の中にまさしくこの課題について論じられている箇所があり、僕自身に納得のいく形で身体の中にすっと入ってきて感動したので今回のような行動に至りました。


論語は皆さんが知っている通り、儒教家である孔子とその弟子とのやりとりを記録したものです。昔学校で習いましたね。あの時は「こんなもの読めるようになって何になるというんだ」とずっと考えていましたが、今はその真逆です。この作品をもっと真剣に勉強すれば良かったと後悔しています。国語の教師はビックボイスで論語の重要性を説くべきだと思います。中高生の人がこのブログを読んでいることはほぼ皆無だと思いますが、しっかり論語に対して向き合うべきです。まぁ、僕が言ったところで説得力はすずめの涙ほどもありませんが。


自分は今T留文科大学で地域社会学科という学科に所属しており、ゼミを通して地域史について勉強することを自分なりの最適解としているのですが、この論語を読んで国文学科に転科して論語をもっと深掘りしていくことが最適解なのかもと思うぐらい論語ってすごいなと実感しています。自分ってすぐ心移りしちゃうんですよね。良くも悪くも。だから、周りから見れば、芯がないように感じられるのでしょう。でも、しょうがないんですよね。これが僕なので。性格は変えられません。これは常々考えることなのですが、「自分は、自分という枠を超えられない」という仮説は真実なのだろうと思います。とにかく自分は自分という生き方をするべき、もりよしはもりよしらしく生きるべきなのだと思います。「じゃあもりよしらしさって何なの?」そんなこと分かりません。ていうかそんなこと分かっちゃったら面白くないじゃない。でも、これからこの課題は僕の体に幽霊のようについてまわってくるでしょう。もりよしらしさに正解はありませんが、最適解は見つけられるように頑張ります。


では、本題に参りましょう。「人生に正解なんてあるのか」という課題についてです。前回のブログでの僕の仮説としては、「人生に正解なんてないけど、最適解はあるのではないか」と言いました。改めて自分の仮説を見つめ直すと、抽象的ですね。これももりよしらしさのひとつだとは思うのですが。


時を戻そう。(ぺこぱより引用)(抑えきれないお笑い愛)


論語には「お天道様は、是か非か。」という課題が論じられています。この課題はすなわち「何が正解で何が不正解なのか。」ということです。僕の疑問に対する答えというか最適解が分かりやすく書かれてありました。人って不思議なもんで、自分が何かに対してアンテナを立てたらそれについての情報が自然に収集されるんですよね。これって本当に不思議です。時を戻そう。ここでは、「志」と「振る舞い」の観点が重視されています。


少し疲れてきました。ちなみにですが、このブログはバイトの休憩中に書いています。ここまできたら、もう「執筆中毒」です。病気です。だからバイトが終わったら、即刻病院に行ってきます。(嘘です。すぐ家に帰ります。)


時を戻そう。


もう。つかれたので。こんかいのけつろんをかんたんにいいましょう。(もうもじへんかんするのもめんどくさいです。)


論語には「人のためになること」が最適解だとされています。


そして、これをもとに考えると、

「志」<「振る舞い」

という式が生まれるのは分かりますよね。


つまり、志がいくら高くても、その志を振る舞いで示さなければ、それは最適解にはなり得ないということです。


こんなこと言われたら「志」も「振る舞い」も悪い僕は一体どうすればよろしいのでしょうか。誰か教えて下さい。でも、これって割と当たってると思うんですよね。たまに、本当はいいやつなのに、周りからあまりよく思われてない人っていますよね。悲しいことにこれは振る舞いが伴っていないということでしょう。そして、逆に言えば、「志」が悪くても、「振る舞い」がいい人、表現力のある人、コミュニケーションが上手い人は、みんなからよく思われるということです。たしかに、当たってるかも。結局人から好かれる人って、コミュニケーションが上手なんですよね。僕にとってこういう人は憧れであり、人間らしさが非常に伴っているので、大好きです。


ちなみにですが、上の教訓は学問にも結びつけても語られています。これは、大学生には心に刺さる教訓かもしれません。


孔子は言います。


いくら知識があっても、活用できなければ意味がないと。


なるほど。いうねえ。孔子様。


結局は活用なんですね。これは、肝に銘じないといけないなと思いました。僕らがいかに知識があることを他人にみせびらかしたところで、孔子に言わせれば「だから、何」となるわけです。ものすごく納得です。かっこいいじゃないですか。孔子様。

(こんなに孔子の思想を語ってたら、マジの儒教家だと思われてるかもな。これはマズイマズイ。)


とにかく僕は、もっと志高く、そしてそれ以上に振る舞いをよくするようにできるように頑張ります。とにかく、いろんな人と喋る練習をしたいと思います。家にこもりがちでは振る舞いも上達しないことにようやく気づきました。てれれれてっててー。よしきはレベルが上がった。もう疲れてるので、今日はいつもよりはちゃめちゃです。ありがとうございました。


最近もりよしがよく考えること

どうも、もりよしです。


今日は、タイトルの通り自分が最近よく考えることについてお話しさせていただきます。


自分が最近よく考えること。それは、「セミの寿命ってなぜあんなにも短いのか。」っていうことではなく、「人生において、一体何が正解なのか」っていうことです。


岐阜駅のスターバックスで文字を綴っている今だって、僕は考えています。「今自分は様々な行動の選択肢の中から、岐阜駅に来ることを選択し、そしてスターバックスに来てスターバックスラテを飲みながらブログを書くことは、果たして正解なのだろうか。もっと他にするべきことがあるのではないだろうか」と。この前の成人式でとある友達から、「もりた、哲学者になればいいやん」と言われたのですが、友達がこういったことを言ってくれた所以はきっと僕自身のこういうしょうもないことを真剣に考えてしまうという性格からきているのでしょう。もっと真剣に考えるべきことが僕にはたくさんあるというのに。僕には哲学者にはなれません。どう頑張っても。物事の本質を知ることには非常に興味がありますが、それを見抜くための能力は欠如しています。


少し話が逸れました。「何が正解なのか」という話についてなのですが、例えば他にも、大学の講義でこの教授の話を聞くのは正解なのか。この教授の話に自分の興味アンテナは向いてるのだろうか。話を聞くより、自分が興味のある分野の本でも読んだ方がいいのではないだろうかとか。最近こんなことをずっと考えています。


こんなことばっかりやってた僕はある日気づきます。「人生において、正解なんてない」ということに。例えば、「レールの敷かれた人生」って言葉ありますよね。勉強を一生懸命頑張って、より偏差値の高い大学に入って、収入のいい会社に就職するというような人生がまさに「レールの敷かれた人生」の代表例なのではないでしょうか。でも、僕思ったんです。これは果たして正解なのかと。(何も自分はこういった人生を歩んでる人を軽蔑しているわけではありません。むしろ、自分はここでいうレールの敷かれた人生をどんなに頑張っても送れない人間なので尊敬の念を持ってます。)たしかに、レールの敷かれた人生を送る人は凄いと思いますが、このような人生について全ての人が正解であるとは言うことはないと思うんです。


「物事に正解はないんだったら何してもいいんだね?」という思う方がいらっしゃるかもしれませんが、不正解はあります。例えば、人を殺したり、ゴミのポイ捨てをしたり、痴漢したりすることは不正解だと言えるでしょう。


「お前は一体何を言いたいんだ?」という声がどこかしらから聞こえてきた気がするので、結論を述べさせていただきます。人生に正解は無いけど、自分なりの最適解を出して日常を過ごすことが自分にとって幸せであり、最高の人生なのではないかと思うのです。


「いってること矛盾してるじゃん。」と思われる可能性が十分にあるので弁解させてください。ここでいう最適解とは「自分が心の底からやりたいこと」を見つけ出し、それを忠実に行動することです。正解とは意味が異なります。(こんなこと言ってますが、自分が本当に心の底からやりたいことをやれてるかと言われて自信を持って「やれてます!」と言えるほどの意志は今現在の僕にはありませんが)


僕はちっちゃな頃から歴史に興味があり、大学でもより歴史についての知識を増やせるようにという志で勉強しています。これが僕なりの最適解です。僕自身が歴史の知識を得ることが将来、人の役に立つかどうかは分かりませんが、ほぼ全ての行動おいて自分はこういう軸に基づいて行動をしているつもりです。これが良いことなのか、悪いことなのかはわかりません。でも、こういう軸を作ることで自分は決断力が向上したと感じています。まあ、そもそもの決断力が低すぎたことはスルーしていただいて...。(将来自分が最適解だと思っていたことが世間の大多数からこれは違うと認識された暁には笑ってください。)


なんか今回は特に自分のしょうもなさをひけらかした気がして、このブログを読んでいただいている方々の中には、「今更そんなこと言ってんの?」って感じた方もいらっしゃるかもしれませんが、これが僕なんです。すみません。読んでいただきありがとうございました。

my coming of age ceremony

どうも、最近方々で「ブログ見てるよ!」とか「続きを書かないの?」とか、かの小泉純一郎のように「ブログを読んで感動した!」という反応を頂き、感謝というかなんというか、言葉では言い表せれないほどの嬉々たる思いを持って、日常生活を送らせて頂いている所存のブロガー、もりよしです。


僕自身、このブログは自分のために書いているいわば、日記のような気持ちで自己中心的に、自己満足のために書き記しているものであるので、色んな人に見ていただけるようにとか出来るだけ読みやすい文章にしようとかあまり考慮せずに記していました。だから、上記で述べたような皆様から頂いた反応は僕にとって衝撃的というか感動的というか新鮮で、シンプルに非常に嬉しいです。


皆様から評価を頂き、少しプレッシャーを感じ、これからはもっと読みやすく、面白くなおかつこのブログを読んで楽しんで頂けたらいいなと思い、今文字を綴らせて頂いていますので、もし良ければこれからもブログの方をよろしくお願いします。


そんなわけで今回は、昨日行われた成人式について語っていこうと思います。まぁ、成人式の感想を一言で言うなら、感謝という言葉が相応しいと思います。とにかく様々なことに感謝した一日でした。まず、親、祖父母に感謝しました。今回成人式に出るにあたって、服の準備から送り迎えなどたくさんの支援をしてくれました。そして、次に成人式を開いてくれた方々に感謝しました。この方々のおかげで僕たちは、20歳という門出を改めて認識することができ、これから社会に羽ばたくための活力を得ることができました。そして、何より友達に感謝しました。正直なところ自分のことを皆んな覚えてくれてるかなという気持ちがあったのですが、皆んな僕のことを覚えてくれており、今までと同じように接してくれたことが何より嬉しかったです。皆んな変わってるようで、どこかに過去の面影があり、僕はそんな新鮮さと懐かしさを感じながら友達と色んなことを語りました。近況報告から将来のことまで。友達と話していて、自分がふと興味深いなと感じたことは、「森田、変わったね!」という友達もいれば、「森田、変わってないなぁ!」という友達もいたということです。果たして僕はこれのどこが興味深いと思ったのだろうか。おそらく、人によって森田佳希という人間の見え方が異なり、もちろんのこと考え方も見え方も違うということを改めて感じたからだと思います。最近、よく考えることなんですけど、会話って難しいですよね。意思疎通が容易にできる人は、僕の周りにもたくさんいますが、これって凄い能力だと思うんです。なんでかって言うと、一人一人が一つの文章や発言などに違うイメージを膨らませるという普遍の真理をぶち壊し、そのイメージを誰もが分かるようなイメージに代用し、話を進めていくことは僕にとっては容易のことではないからです。これができるようになることは僕にとって生涯の目標ですね。


話が少しそれましたが、とにかく色んなことを語りあいました。僕が昔書いた「今日の夕ご飯、ピロリ菌、なんでっ?」っていう未だに訳の分からない(きっと永遠に分からない)

漫画の話や、最近自分が自分自身の個性について考えたことなど。やっぱり、故郷っていいですね。故郷がいいというか故郷の友達に恵まれていると心の底から感じています。このおかげで、ありがたいことに僕にはたとえ社会に絶望しようが、地球が反対に回ろうが、富士山が噴火しようが、熊野市というホームがあるので、安心して帰れる場所、心の拠り所が定着しています。


昨日友達と別れて、家に帰ったら心がものすごく空虚になり、そうこうしてる間に虚無感という感情が僕の心を襲ってきました。きっと、今回の成人式そしてその後の同窓会が僕にとって非常に楽しく、有意義なものだったのでしょう。なかなかこんな感情は僕自身感じたことがありません。卒業式とはまた違う感触でした。


とにかく友達みんなが頑張っているという事実を知り、改めて僕自身ももっと成長しなければな!と感じさせてもらった深い一日でした。この先、巨大なウォールマリアにぶつかったときも「みんなが頑張っているんだから、僕も頑張ろう!」という

揺るぎない信念をもって生きていくことができるように頑張ります。

みんな、ありがとう。

いつか僕も、見えないところでみんなの背中を押せることができるようにという希望を込めて....

                                                              fin


(なんかクサイ終わり方ですみません)

M-1グランプリ2019part2

昔となりのおしゃれなお姉さんは〜

クリスマスの日私に言った〜♫

どうも、もりよしです。

何を歌っているかって?ユーミンの「恋人がサンタクロース」ですよ。

(最高級の自虐ネタ)


まあ、自虐ネタは置いといて、今年のM-1の寸評の続きを語っていこうと思います。


6、見取り図


かなりレベルアップしてましたね。去年も「アタオカ」とか、「すがゆりこ」とか「マルコ牧師」という独特のワードセンスで笑いを取ってましたが、今年もワードセンスで勝負するネタでした。まぁ、正統派といえば正統派な漫才ですかね。僕自身正統派の漫才よりも変則的な漫才の方が好きなんですが、このネタで正統派の凄さを改めて実感しました。

去年もそうだったんですが、見取り図さんは、構成が好きなんですよね。前半でフッておいたものを後半で綺麗に回収してくれるので、見てて非常に気持ちがいいんです。今回は、褒め合うという入りから段々とけなし合うというネタでした。「太っちょキリスト」とか、「あおり運転の申し子」、「エグザイルの41軍」とか面白すぎでしょ。掛け合いが良かったです。去年の「それ誰やねん!」っていうネタが聞けて良かったです。


7、ミルクボーイ


賛否両論あるし、物議を醸しているミルクボーイさんですが、僕はすごいと思いました。これはもう、「THE 漫才」っていう感じですね。「コーンフレーク」という無機質でそれだけでは何も面白くないワードで、あそこまで笑いに変えるのは、シンプルにすごいと思います。観察眼がすごいのか、掘り下げる能力に長けているのか。羨ましいです。僕もこの二人ぐらいの観察眼と突き詰める能力が欲しい。僕も何か、無機質なものでブログでも書いてみようかな。「電子レンジ」とかで。


8、オズワルド


ちょっと順番的に可哀想と思いました。オズワルドさんは、関東出身で脱力系漫才というかシュール系漫才というか、しっとりした雰囲気の漫才なので、一個前のミルクボーイさんの圧がある漫才の次だと、インパクトが薄れちゃうと思ったからです。少し順番の妙はあったように感じます。でも、しっかりと味が出てて良かったと思います。ミルクボーイさん一体になっていた空気を自分たちの空気に変えていました。会話のズレを用いて進めてく漫才。なんかちょっとかまいたちさんと少し被っちゃってましたね。そこが惜しかったです。おぎやはぎさんっぽかったようにも感じました。コンテストで関東の漫才が関西の漫才に勝つのは難しいですね。どうしても勝ち上がるためには、インパクト(圧)が必要になってくるのでしょう。関東の言葉と関西の言葉の違いは何なのか。個人的にこの点は大学生活で掘り下げていきたいです。


9、インディアンス


「もしかしたら、優勝するんじゃないか?」と個人的には踏んでました。田渕さんのテンションが上がれば上がるほど面白いんですよね。だからこそ、流れに乗れば、彼らは爆発するんじゃないかと期待していましたが、残念でした。でも、めちゃくちゃ笑いました。「おっさん女子高生」っていう設定いいですよね。まるで辻褄が合ってないような人物を作り上げて、演じていく。この発想性はすごいです。でも、ナイツの塙さんが仰っていたように、おっさんらしさが少し足らなかったのがもったいなかったですね。(「誰が言ってんねん」と誰か僕に怒ってください。よろしくお願いします。一生のお願いです。)


10、ぺこぱ


一番笑いました。最後らへんは、お腹が痛くてしょうがなかったです。まさに、変則系漫才ですね。個人的には、第1位かもしれません。松本さんが言ってましたが、「ノリ突っ込まないボケ」という新しいものを創造するのは、才能ですね。思いつきそうで思いつかない武器ですね。完全にハマっちゃったので、早速僕も、日常生活で使っちゃってます。構成とか技術とかで勝負するのではなく、個々のボケで勝負する系の漫才の爆発力は凄まじいですね。敗者復活戦のトムブラウンさんとか、天竺鼠さんもそうでした。僕はこういう突拍子も無い漫才にものすごく惹かれます。


そして、予選を勝ち上がり、決勝に進んだのは、ぺこぱさん、かまいたちさん、ミルクボーイさん。そして、見事ミルクボーイさんが優勝しました。正統派漫才の強さを痛感しました。この決勝を簡単に表現すれば、「技術対王道対変則」ではないでしょうか。個人的には、ぺこぱさんにいってほしかったですが、残念ながら一票も入りませんでした。僕が疑問に思ったのは、「変則系漫才(2010年のスリムクラブさんとか)はなぜ勝ちにくいのか」ということです。僕の持論としてはおそらく、審査員がやってきた実績に近い漫才がミルクボーイさんの漫才だったように感じるのだと思います。だから、ぺこぱさんのように、今までに誰もやってこなかったような漫才は、審査員としても、触れてこなかったところなので、一票として評価するのは難しいのではないかというのが僕の意見です。もちろんのこと、審査員にも、プライドがあります。ここが変則系漫才が勝ちにくい理由でしょう。いつか、創造力、発想性が伝統性に勝てる時代が来るのを僕は望みます。僕がなぜここまで創造性にこだわっているのか疑問に思う方もいらっしゃると思うので説明させてください。僕は創造には必ず伝統をオマージュする能力が必要不可欠だと思うからです。例えば、ぺこぱさんのノリ突っ込まない漫才は、ノリツッコミという伝統から生まれたものだと思うのです。ノリツッコミという知識があるから、それを逆手にとって応用し、今回のような独自な漫才が生まれるのだと思います。ここで一つ言っておきたいのは、何も僕がノリツッコミをそのまま取り入れた伝統的・正統派漫才を軽視してるわけではないということです。伝統をブラッシュアップするのも素晴らしい才能です。ただ僕自身は立川志らくさんが仰っていたような「伝統と創造が融合された漫才」が好みであるというだけのことです。おそらく僕は創造できる能力がある人を羨ましがっているんです。憧れなんです。指をくわえながら「ああいう人になりたいな」と夢想してるんです。だからこそ、ぺこぱさんのような独特の漫才に惹かれるのでしょう。これから僕も創造力のある人間になれるように頑張っていきたいです。


もう一つ、僕が面白いと思ったこと。それは、「技術のかまいたちさん」と「大衆ウケのミルクボーイさん」では、「大衆ウケのミルクボーイさん」の方が審査員の評価を得ることができたことです。これはおそらく漫才は人に受け入れてもらえるかどうかが重要視されることからこのような結果になったのだと思います。どれだけ技術が極められていてもお客さんに受け入れられなければ意味がないという暗黙の了解的なものがあるのでしょうか。「お客さんに受け入れられる=ウケ」なのでしょう。僕が思うに、予選では玄人ウケが重要視され、決勝では大衆ウケが重視されるように思います。そして、今回においては玄人にもウケて

大衆にもウケたのがミルクボーイさんだったということなのでしょう。


今回のM-1は過去最高に面白いものだったと本当に思います。その理由の一つとして、多様性があげられると思います。何か今のグローバル化が進んでいる日本の状況を抽出したような大会でしたね。そう考えると、M-1が面白かったと感じた僕は、今現在の社会も面白いと感じられるのではないかと改めて感じました。「誰にでも個性はある」「みんな違ってみんないい」ということを改めて実感した大会でした。長々としたしょうもない自己満足のための感想文を読んでいただきありがとうございました。

M-1グランプリ2019

どうも、もりよしです。

今日僕が住んでいるY梨県T留市は雪が物凄く積もりました。

雨は夜更け過ぎに雪へと変わったみたいです。(引用 山下達郎「クリスマスイブ」より、僕みたいな独り身にはたまらなく心に染みる名曲です。余談ですが、桑田佳祐さんの「白い恋人達」も最高です。)


そんな独り身の僕は昨日ずっとテレビを見ていました。なぜなら、M-1グランプリという一年に一度の最高級のお笑いバトルが開催されていたからです。本戦は18時30分あたりからやってたのですが、敗者復活戦というのが正午あたりから16時ごろまでテレビで放送されていたので、半日ずっとテレビを見てました。個人的には、敗者復活戦もレベルが高すぎて非常に面白かったので、このことについても語ろうと思ったのですが、ここまで行くとニッチすぎて読んでいただいている方がついていけないと思いますので、敗者復活戦の方は割愛させていただきます。(希望があればやりますが。)


てなわけで、本戦について語っていきましょう。まぁ、とにかく全体的にレベルが高すぎました。全組面白いし、芯がある、武器がある、色がある。今回は個性のぶつかり合いのようなバトルでした。もうなんか異種格闘技戦みたいな感じでした。「漫才とは何なのか」という答えのない問いについて深く深く考えた末にたどり着いた境地にそれぞれが立って、なおかつ個性を発揮して、お客さんに爆笑を与える芸人さんたちの熱いプライドは感動という言葉では言い表せれないほどのものでした。とにかく、かっこよかった。なんかこれカルヴァンの職業召命観に似てますね。神に救われるかどうかはわからないけど、自分は救われるということを信じるためにも、自分ができることは一生懸命やろうというのが職業召命観なのですが、今回のM-1はこれに似てました。「笑いとは何か、面白いとは何か」は、わからないけど自分自身が「面白い」と思う「笑い」を信じて勝負に挑むという信念で皆さんが臨んでいたように感じました。僕自身今回のM-1は今までで一番面白かったと思います。(なんか偉そうにすみません。)とにかくお笑いの将来は安泰だと思いました。(なんか偉そうにすみません。)


では、これから1組ずつの寸評を僕自身の価値観で論じていきたいと思います。ただ、一つだけ言いたいことは僕は芸人ではないので、技術のことなどは全くわかりません。とにかく自分は純粋に思ったことを語っていこうと思います。とにかく全組の面白さって何なのかを自分なりに噛み砕いていきたいだけなので、気楽な気持ち(こいつなんか言ってるぞぐらいの気持ち)で読んでいただければ幸いです。


1、ニューヨーク

個人的には、トップに向かないかなと思いましたが、そんな不安も拭い去ってくれました。ネタは、歌ネタという至ってオーソドックスなものだったのですが、切り口がニューヨークらしくて良かったと思います。このコンビの持ち味は「皮肉なことを言ってるんだけど笑える」というところだと思います。このネタでも、「若い女性は100万年とか100万回とかいうとけばええねん。」というフレーズが出たように、風刺が効いていました。正直、点数が厳しいなと思ったのですが、よく考えるとそうでもないのかもしれません。この漫才、20歳大学生の若造である僕は笑いましたが、全世代が笑えるかといえば、少し厳しい部分があると思いました。米津玄師がネタの中にでてきたことなどから、このネタのターゲットは若者向けなのです。漫才というのは、全世代が笑えるものが理想形という風潮があります。まぁ、これは審査員によると思うのですが、この風潮に則るとたしかにこの点数は腑に落ちます。僕はドツボにはまりましたが。ここで、改めて漫才の奥深さを感じました。一つの世代をハマらせただけでは勝ち進むことができない。なんて厳正なコンテストなんだ。


2、かまいたち

常連組かつ優勝候補という高いハードルの中での戦いでしたが、本当に素晴らしい漫才でした。こんな漫才今までで見たことないです。理由はわかりませんが鳥肌がたちました。構成も抜群で一貫性があり、言い間違いをなすりつけるという発想の斬新さ、そして動きも交えたネタ。唯一かまいたちさんが客に語りかけるという手法を取っていました。この辺りもかまいたちさんの個性だと思います。これぞ、オマージュだと思います。因縁の審査員立川志らくさんに「参りました」と言わしめたシーンはカッコ良かったです。


3、和牛

ここも常連組かつ優勝候補です。ネタは敗者復活戦と一緒のやつですね。敗者復活戦でもウケて、決勝でもウケてました。もうなんか和牛節というか、何というか「和牛」というスタイルが確立したように思います。ナイツの塙さんもおっしゃってましたが「毎年違う作品を見せる」というのが和牛さんのすごさだと思います。こんなにネタを変更すれば、一つぐらいは、出来が少し悪くなってもおかしくないと思いますが、それがなくむしろパワーアップしてるのが和牛さんの魅力です。僕が芸について語るのは本当におこがましいし、馬鹿げたことなのですが、お二方の演技がものすごく上手なので、そのシーンの映像が頭に浮かぶんですよね。今回のネタは、不動産というこれもニューヨークさんに引き続き、割とベタなネタだけど、それをも和牛色に染めていく。いや、面白かった。「いいね」と「お邪魔しました」というワンフレーズだけで笑いを取るレベルの高さ、この境地にたどり着ける若手の芸人さんで和牛さんのほかにいるのでしょうか。


4、すゑひろがりず

言わずもがな面白かったです。「これが漫才として見られるかどうか」を考えながら笑っていました。まあ、点数や感想からも漫才として認められたと僕は感じています。能や狂言を漫才に組み込むというこの手法は今までにないパターン。漫才の幅を広げた立役者だと感じています。M-1向きではないような気がしましたが、魅力が最大限に活かされてたように思います。何が良いって、小太鼓を叩く前のツッコミワードのセンスがいいと思いました。「あな、しつこし」とか「たそ(誰ぞ)」とか「召せ」っていう言葉の切り取り方がツボです。個人的には「たそ」が好きです。


5、からし蓮根

このネタは、前にも見たことがありましたが、改めて見ても良かったです。熊本弁面白いですね。「ファンタスティックばい!」っていう独特なツッコミ。千鳥さんとはまた違う

新たな方言漫才って感じでしたね。ミニモニっていうワード久しぶりに聞きました。ここのボケはお気に入りです。なんてったって最後の車で轢いちゃうというオチがいい。


このまま全組語ると字量がえぐいことになると思うので、一旦終わらせて頂きます。 

part2に続く